先日、『ミイラ―「永遠の命」を求めて』展に行った話をかいつまんで書きましたが、
最高 of 最高でした。
今日は、もう少し詳しく今回の特別展について書きたいと思います。
まずポスターがすごいよね、「世界から、43体が集結!」だからね(笑)めちゃくちゃ煽ってくるよね(笑)
私は5歳のころからミイラオタクだから、この煽り文句読んで気持ちブチ上がるけど、要するに「世界中から死体が大集合」ってことなんで、興味のない人にとっては、ただのホラーです。趣味の悪いリアルホラーってところ。
図録の表紙も死体だもんね。非常に穏やかなお顔ですけどね。苦手な人は、たぶんすごい苦手だよね。
でも、混んでました。「ミイラ展」。
平日の昼間なのに、ものすごく混んでました。
「ミイラ展」と銘打っているだけあって、埋葬品や資料の周囲ではなく、ミイラ本体のガラスケース周辺に、人だかりができてるんですよ。みんな釘づけ。
いやぁ、同類って世の中にこんなたくさんいるんですね(笑)嬉しいです。
私もミイラに釘づけで、2回ほどガラスケースに頭をぶつけました(笑)あまりに夢中で凝視していたら、自分とガラスの距離感を測れなくなりまして……ハトか。
さて、今回の特別展は、本当に世界中からミイラが大集合しておりました。
ミイラというものは、基本、赤道直下の国で盛んに作られます。日本のように、高温多湿の高い国はミイラづくりに不向きです。遺体が腐るからね。
しかし、「ミイラ」という単語には「ミイラ(広義)」と「ミイラ(狭義)」があり、「ミイラ(狭義)」は、皆さんが想像するカラッカラに乾いたアレで、暑くて乾燥した国で作られますが、「ミイラ(広義)」には、乾いていないものも含まれます。
たとえば、ヨーロッパの沼地から発見されたミイラ。
沼ということは湿気どころの騒ぎではないのですが、逆に湿気が多いところでも、条件によっては遺体の保存がきくのです。まあ、沼地から発見されたものは、「皮膚だけ」とか「手だけ」とか、絵的にキツイものが多いんですけどね。
高温多湿の日本でも「屍蝋」という形で、遺体が長期的に保存されていることがまれにあります。
私が好きで好きで仕方ない金田一耕助シリーズの『八つ墓村』(横溝正史著)にも、大事な場面で「屍蝋」が登場しますね。好きなもの(ミイラ)×好きなもの(金田一耕助)のコラボです。
ご興味のある方は、ぜひ読んでみてくださいね。
……閑話休題。
とにかく。
現在開催中の「ミイラ展」では、「ミイラ(広義)」のものを含めて、ありとあらゆる遺体が展示されていたんですね。
前回のブログでも書きましたが、「埋葬とは、究極の愛の形」だと思っています。
そして、ミイラは、広義でも狭義でも、埋葬の一種です。
埋葬の方法は気候風土に左右されます。
暑くて乾燥した古代エジプトでは、遺体を保存するミイラという埋葬方法が発達しましたが、高温多湿の日本では遺体を保存する発想は生まれませんでしたし、「死=腐敗=忌み嫌われるもの、恐ろしいもの」という考えが定着しました。
死の概念は、宗教や文化のベースです。
かつて生きていた人々が何を信じ、何を崇め、どんなあの世を想像し、死した家族や仲間のために何を祈り、どのような手間を施したのか。
埋葬は最後の奉仕。愛と感謝をいっぱいに詰め込んだもの。
かなり手間のかかるミイラは、究極のなかでも究極の愛と言ってもいい。
今回展示されていたミイラのなかには、自然とミイラになってしまった遺体や、処刑・いけにえ・(おそらく)殺人でミイラになってしまったものも含まれていましたから、一概に「愛」を語るワケにはいかないのですが。
埋葬方法やミイラから、学べることは山ほどあります。
その土地の文化や宗教、思考回路、時代背景を知りたいなら、埋葬方法を調べるのが一番いいと言っても過言ではない。と、いうのは私の持論です。
怖い、不気味、悪趣味……と思う方も多いかもしれませんが、さまざまな死と向き合い、愛を知るのも、悪くはないんじゃないでしょうか。
だいたい、死を「怖い」「不気味」と考えること自体、遺体が腐りやすい日本ならではの死生観とも言えます。
「死した人たちの魂が戻って来て復活する」と信じていた古代エジプト人の考え方に触れてみるのも、新しい価値観の芽生えになるかもしれませんよ。
……ああ、また今回も語り切れなかった。第3回があるかもね??