山口夢Official Blog

物書き(小説家・シナリオライター)の山口夢です。

表現の世界はもっともっと自由なのだ―徳川夢声『37年型浦島太郎』―

表現の世界は、私が思っているよりも、ずっとずっと自由らしい。

体言止めはよろしくない、文章に重厚感がない、これを小説とは呼べない。

ないないない、の、ないもの尽くし。

誰に言われたワケでもないクセに、肩にも脳にも力が入り、つい、硬くて真面目でしゃちほこばった文章になってしまう。困った困った。

 

しかし、繰り返しになるけれども、表現の世界はずっと自由なものらしいんだ。

 

相変わらず、移動用には『徳川夢声の小説おと漫談これ一冊で』を読み進めております。

blog.yumeyamaguchi.com

そもそもあまり移動しないし、仮名遣いが古いため、サクサクと読み進めることはできませんが、とてもとても面白いです。

今は、『37年型〇〇』シリーズ。

『37年型浦島太郎』『37年型花咲爺(はなさかじじい)』『37年型桃太郎』と来て、現在は猿蟹合戦を読み進め、残すはかちかち山ひとつ。

ここでいう「37年」とは、「1937年」すなわち「昭和12年」のこと。

つまりは、昭和12年の作品ということでございます。

 

タイトルでお察しのとおり、どのお話も、おとぎ話を現代風(=昭和12年風)にアレンジした物語です。

今回、私がご紹介したいのは『37年型浦島太郎』。

とある長距離列車に乗り合わせた、浦島太郎くん(本名)と「亀」井寛一郎氏。

そこで意気投合したふたりは、やらしい料亭旅館の「竜宮城」にしけこみます。

ところが、この時点ではすでにもうページ数が足りない作者・徳川夢声先生。

さて、読者諸君、こんな調子で書いていると、この物語は幾十枚になるか、見当がつかない。与へられた枚数は、も早三分の二もなくなったのに、物語は未だ四分の一ぐらいしか進行してゐない。さらばこれよりディーゼル・エンジンの超特急流線型とゴザーイ。

──徳河夢声『37年型浦島太郎』 

正直かッ、そして自由かッ!!

なんだよ、「ゴザーイ」って!! 可愛いかよ!!!!

ディーゼル・エンジンの超特急流線型」は、現代だとさしづめマッハ3の戦闘機というところでしょうか。

このあとも、都合よくディーゼルを使って中身をバッサバッサ省略していきます。

あれからどう話がついたものか(これがディーゼル式ですゾ)、二人は東京駅迄の切符を持ちながら品川駅で降りて、逆にタクシーで大森へ来たのである。

【中略】

それから、十時間後のこと(いよいよディーゼルも超速度ですゾ)である。

──徳河夢声『37年型浦島太郎』 

便利かッ、そしてやっぱ自由かッ!!

いっそ開き直り感がすごい(笑)

ページ数が足りないことも正直に言っちゃったし、ディーゼル宣言もしたんだから、これで全部許されるよね☆ テヘペロッ☆☆ 的な匂いがする。

だから先生可愛いかよ。いや、「テヘペロ」は完全に私の想像なんだけどね!?

 

とにかく、魔法の「ディーゼル」を用いて省略のナタを躊躇なく振り下ろす徳川先生。

読者がそれに慣れた頃合いを見計らって、いよいよ最後の大ナタを振るいます。

 

ちょっとやらしい「竜宮城」で、亀井さんの呼び出したご令嬢と、一夜をともにした浦島太郎くん。翌朝、昨晩のあれやこれやを回想致します。

彼女は、いかにもアカぬけた洋装で、ただもう勿体ないやうな、令嬢である。それが二口、三口さした盃をうけるとひどく酔って、人の身さかへがつかなくなったんだらう。手を引っぱったら目をつむったまま、この部屋(※=浦島太郎の部屋)について来たのである。

それからその(ディーゼル!)

いよいよ嬉しくて(ディーゼル!)

まったくあんな(ディーゼル!)

──徳川夢声『37年型浦島太郎』 

ちょっwww 自由かッwwww

おそらくは読者の一部がもっとも楽しみにしているであろう色っぽいシーンを、もはや「これがディーゼル式~ゾ」なんてまどろっこしい一文も使わず、「ディーゼル!」のひと言で一刀両断(笑)

ディーゼルの部分はご想像にお任せ致します手法で、全年齢が健全に読める作品となっております。

私も全年齢対象の乙女ゲームや漫画のシナリオで、よくやる手法ですね(笑)いわゆる朝チュンってヤツですよ。

恋人同士がベッドに寝そべったところで──朝ッ!! みたいな。すずめチュンチュン、みたいな。「──」の部分は、お好きに脳内補完してね♡♡ っていう、ライターからの挑戦状(笑)

やらしく想像するもよし、ふたりですやすや即寝もよし。

 

それを「ディーゼル!」ひとつでやってのけてるワケですね、徳川先生は。

どんだけ強引な朝チュンなんだよ(笑)、とは思いますが、このシーンを読んだ瞬間、なんだか私ホッとしちゃって。

小説の表現は、もっと自由でいいんだって。やりたい放題やっちゃっていいんだって。

 

確かに、徳川夢声先生はもとが活動弁士であり、小説家のほかに漫談家としての顔もあるため、文体にも漫談の雰囲気が色濃く出ていて、純粋なる「小説家」ではないのかもしれない。

しかし、世の中すべての小説家が、生まれた時から小説家なワケじゃないんだから。

「元〇〇」とか「兼業作家」とか関係なく、己の感性で、たとえば「ディーゼル!」が面白いと思ったら、小説だろうとなんだろうと、好きにやっちゃってOKらしいですよ。

 

いいじゃんいいじゃん。

私もいつか、自由かッ(笑)ってツッコまれたいよ。

 

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毎日恒例の宣伝を挟みまして。

徳川夢声先生に限らず、明治・大正・昭和初期の小説を読んでいると、表現や文体も人それぞれ、今では禁じ手っぽいこともバンバンやってるんですよ。

芸術はある程度発展すると、「こうあるべき」という法則や、「邪道」という評価が横行するようになりますが、決してそんなことはないのだと、そのジャンルの先駆者たちが、作品をもって教えてくれることがあります。

もちろん、思い通りの自由を使いこなすためには、ある程度の基礎は必要で、しっかりと勉強しなければならないのだけど。

 

もうちょっと脳みそを柔らかくして、自由な発想で作品と向き合いたくなったのでありました。

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