やーーーーっと読み終わったんです。
『恐怖の博物誌』イーフー・トゥアン著、金利光訳(工作舎、1991年)。
5年前に購入して、3回挫折して(笑)、このたびようやくの読了です。
これ、以前も言いましたが、3回の挫折はすべて冒頭で、今回は気張って冒頭を抜けたところ、第3章あたりからめちゃくちゃに面白くなりました。毎晩、寝る前の30分が楽しみだったよ。
こういった学術的書籍のいいところは、「歴史的にこういうことがありましたよ」「こういう調査結果がありますよ」と、ひたすらにデータを並べて、「だから、こういう考え方ができますよね」という、一応の答えは出してくれるけど、「何を感じるか、考えるか、それは結局あなた次第ですよ」と、最後の瞬間には投げっぱなしにしてくれるあたりです。
いい感じに脳みそを掻き回してくれます。考えるキッカケをくれるというか。
で、この『恐怖の博物誌』、タイトルのとおり「恐怖」という感情にスポットを当て、「長い歴史のなか、人は一体何を怖がり、何に怯えてきたのか」「今後、恐怖はどのように変遷していくのか」を、基本的には歴史の流れに沿って解説する書籍です。
1番最後の訳者あとがきを読んで知ったんですが、日本語訳の出版は1991年でも、実際に書かれたのは1979年なんだそうです。ちょうど40年前。
40年前の書籍なのに、40年後である現在にちゃんと通じるものがある、素晴らしい1冊です。
人は昔から、死や病気、飢餓、天災、暗がり、他人の悪意、などなど、いろんなものを怖がってきました。
急に病を患ったり、なんの前触れもなく地震や洪水に襲われたり──理由が分からないと、もっと怖い。
だから人は、悪魔・幽霊・魔女・祟り・呪い、などなど、何かともっともらしい理由をつけて、恐怖を和らげようとしてきた、というのが、『恐怖の博物誌』のベースに流れている考え方です。
人間、住んでる場所が日本だろうがアメリカだろうがアフリカだろうが、恐怖を感じる対象はだいたい似たようなもんで、恐怖を下地にして信仰や儀式が作られるのだとすれば、遠く離れた国々に、似たような神話や文化が生まれるのも納得だな、という1個の答えに行き着きました。
たとえば、太陽信仰とか。
太陽が出ると、作物いっぱい育つもんね。飢える必要がないもんね。恐怖から救ってくれる「神様」が、世界各地で「太陽」になるのも分かるーーーっていう。そんな流れ。
創作の世界に生きていると、「うはーーーーっ、アイデアかぶったーーーー!!」みたいなことがよくあって、「人間、誰しも似たようなことを考えるもんだなぁ」なんて不思議に思ったりもしていたけど、結局、どこの国・どの時代の人間も根本的な部分に共通点があって、それをベースに創作をしていれば、同じアイデアが浮かぶのも当然ですね、と、妙に合点がいった次第です。
とはいっても、各国・各時代により、感覚の異なることもおおいにあって、今回『恐怖の博物誌』を読んでいて、時代的な誤差を強く感じたのは、「死」と「暴力性」の部分でした。
どんな時代、どんな国でも「死」は怖い。それは一緒。
しかし、現代の日本は長寿大国であり、ねずみ1匹の死骸も町に見当たらないような、「死」から切り離された環境が整えられています。自殺者は多いし、災害も多いけど、極端な話、死体がその辺に転がっていて、長いこと放置されるような環境ではない。少なくとも。
ところが、数百年前は違っていた。
これは『恐怖の博物誌』に書かれていたヨーロッパの話ですが、町のあちこちに絞首刑をおこなう絞首台があり、刑の執行日は見物人であふれ、罪人に石を投げながら飲んで騒いで、ちょっとしたピクニック気分だったそうです。
しかも、絞首刑に処された死体はそのまんま朽ちるまで放置され、その下でもやっぱり宴会を開いていたんですって。
そして、これはヨーロッパに限った話ではなく、日本でもはりつけやさらし首が刑としておこなわれていた時代があったワケで、冷静に考えると、めちゃくちゃ怖くないですか?? 切った首が街中にずらっと並んでるんだよ??
いや、嘘でしょ。一体全体、昔の人は正気なん!?
……と、思うけど。
医療の発達していない当時、「死」は今よりも、きっと身近なものだったんでしょう。
あっちゃこっちゃで戦争もあるし、「死」へのハードルが低かった。
自分が死ぬのは嫌だけど、他人が死ぬことには慣れている。そうなってくると、「死」の手前にある「暴力」へのハードルもだいぶ下がる。
だって、その辺に死体がぶら下がってたり、戦争で殺し合ってたら、「ちょっと殴ったり人に石投げるくらい別にいいじゃん」ってなるでしょ。ふつーふつー、みんなやってる、って。
まあ、つまり、慣れって怖い。
たとえば、時代モノを書くときに、このあたりの事情を現代日本人の物差しで測って作品にするのは危険だな、と考えを改めました。
現代人には異常でも、時代によってはそれが正気。
では、法が整備され、「人権」というものを尊重し、「死」とはおおむね縁遠く、安全安心な社会に生きる(おもに先進国の)現代人は、「暴力性」を失ってしまったのかな?? どうなのかな?? 肉体的な暴力から精神的な暴力へ移行して、SNSにおける「炎上」や「叩き」が生まれたのかな??
……なんてことを考えながら、『恐怖の博物誌』を読了しました。それが昨日。
で、今日ですよ。
Twitterを開いたら、トレンドに「自殺の動画」だのなんだの、物騒なワードが並んでいて、大阪のビルから飛び降りた女性の動画が拡散されていました。
ビルの下でスマホを構える人たちや、わざわざ動画を撮影して拡散するような人間に非難が集まり、「現代人のモラルが低下している」等、さまざまな意見や見解を目にしましたが、昨日『恐怖の博物誌』を読了したばかりの私には、どっちかというと、法や秩序にのっとり、澄ました顔で暴力とは無縁の生活を送っているような現代人も、絞首台に群がっていた頃の民衆から、たいして進歩してないんだな、と、映ったワケです。(※自殺と刑罰を同一視しているのではありません。念のため)
情報を拡散する技術が発達しただけであって、絞首台そのものに群がるか、ネットの動画に群がるか、やってることはたぶん一緒。
「動画を拡散するのはやめましょう!」という動きがあるだけ進歩しているのかもしれないけど、そういった議論を経て、絞首台も廃止になったワケだから、結局200年くらい進歩してないことになってしまう。
っていうか、絞首台に群がることのできる人間に限りはあっても、動画は実質無制限であって、よりタチが悪くなっている可能性もある。
「技術の進歩」と「人間性の進歩」って、私が思っていたよりも、だいぶかけ離れちゃってんのかな、と感じた1日でした。
技術の産みの親である人間が、子どもであるはずの技術にまったく追いつけていないのかもしれない。悲しいかな。
たぶん、人間がぶっちぎりの周回遅れです。
人は、自分や自分の身近な人に危害が及ばない安全圏にいる限り、その外で起こる「死」や「暴力」に、今も昔もスリルやエンターテインメント性を感じがちで、そういった、人間の根本にある欲望みたいなものを埋める目的もあって、いにしえより演劇や文学が、現代には映画や漫画が存在しているんだと思うんですよ。
澄ました顔で生きるためのガス抜き的な。
企画会議なんかでときどき言われるけど、「冒頭5分とか冒頭5ページにエロか暴力を入れて、刺激的にしてもらわなきゃ困ります」って。「そうじゃなきゃ売れません」って。
これは、根本はおそらくたいして変わっていないのに、より節度を持って生きることを求められる現代人が、より強烈な刺激のガス抜きを欲している、という証拠なのかもしれません。あくまでも仮説だけど。
結局、人間には恐怖に怯えつつ、恐怖を求める本能があって、それはもう本能だから否定はしないにしても、そのあたりの欲望は、架空の世界で満足させてあげられないもんかな、と思うのです。現実とはきっちり線引きをして。
人の死をエンタメにして許されるのは、純然たるエンタメのなかだけではないだろうか。
1周先を行く技術を使いこなせるだけの人間力が、今、求められているような気がしてならないのです。
……あ~~~~~~、今日はのんきに宣伝を挟む気分じゃなくなっちゃった。なんか最後偉そうな感じになっちゃったし。タイトルと着地点も違い過ぎるし。どうもすみません、なんでこうなった。
私が気になった人は、Twitterなりウェブサイトなり、ご自由にご覧ください。
基本は頭の悪いことばっか言って、頭の悪いことばっか書いてる人間です。あしからず。